姫路市の進学塾「創志教育 GRIT」

代表挨拶|姫路市の進学塾「創志教育 GRIT」

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教育
 はじめまして。創志教育 GRIT塾長の村岡世済と申します。
世済とはセイザイと読みます。「済」という字には私が29代目であることの証しであり、「世」という字は祖父から授かりました。
10代は未来のことなんか考えることなく毎日を過ごしてきました。
20代は自分のことを中心に考えて生きてきました。30代に入って自分の人生というものを考えるようになりました。35歳になって自分の存在を考えるようになりました。この世に生を受けたことや自分の人生をどう生きるのかそんなことをずっと考えてきました。そして2012年は考えるだけでなくガンガン行動しようと決意に至りました。本気で自分の人生を生きること、人を幸せにする存在であること、人生を死ぬまで学び続けること、感謝を常に感じて生きること、これらを自分の生きる指針としています。
なぜ祖父は私に「世」という字を名づけたのか、35歳からずっと気になっています。その想いが年々強くなり、日々「世」という自分の名前に対する思いや祖父がいろんな思いで私に授けた「世」という名前を自分なりに思索しながら生きています。「あるがまま」で生きる、「為すがまま」に生きる、「自分らしく」生きる。そして「いつまでも夢を持って」生きる。自灯明の精神を持って、そして、人が本当に大切にすべきものは「太陽」・「水」・「空気」・「愛」であり、それらはすべて無償であることにいつまでも感謝したい。
使命
当時19歳の私は医学部を目指して2年浪人していました。2次試験に向けて明け方まで勉強して時計はもう5時をまわろうとしていたのでベッドに入りました。
自分が寝ついたのかどうかもわからない中、1995年1月17日午前5時46分52秒、突如に襲った大地震が発生しました。凄まじい揺れに地震とは理解することができず、これは絶対に悪い夢だとしか考えることができませんでした。
壁が崩れ落ち、物が全て倒れ、非常用具なんて探す余裕もなく、2階から下に降りる階段は崩れていました。どう考えても悪い夢としか考えることができませんでした。なんとか家の外に出た外の光景は、戦争が始まったのかとしか考えることができませんでした。
しばらく経つと出火が始まり消防車が来ることもできずにただひたすら火は燃えるだけ、周りでは家が崩れ落ちて生き埋めになった人たちがいるけど、瓦礫が重たすぎてみんなで力を合わせても瓦礫は動かない。瓦礫の中から「助けて、助けて」と声は聞こえても、何もできずにやがてその声は小さくなり消えた。
祖母は、「B29がやってきた。またやってきた」と錯乱状態に陥り、母は「もうみんな死ぬしかない」と私に言い放った。
同級生も命を落とし、先輩も命を落とし、自分の周りでたくさんの命がなくなった。「絶望」という言葉しかこのときには頭に浮かばなかった。「人の命」ってなんだ?「人生」ってなんだ?「幸せ」ってなんだ?こんな言葉が私の頭の中で何度も叫ばれていた。「俺はなんで生きているんだ。」「俺は何がしたいんだ。」「俺はなんで医者になりたいんだ。」「生きるってなんだ。」「俺の存在ってなんだ。」それからの日々は、こんなことを頭の中で繰り返し考えていました。
医学部進学をあきらめ、当時はすでに亡き尊敬すべき祖父の夢は、「孫が姫路工業大学に進学し学者になること」でした。1年間の授業料が全額免除されるということもあって姫路に出る決意をした。震災で家は全壊し住むところがなかったので姫路で一人暮らしが始まりました。
姫路を選んだもう一つの理由は神戸から近かったからでした。大学が始まって講義を受けていてもいつも神戸の街のことが頭の中で浮かび自分が平然と生活していることに罪悪感を感じていた。
大学生活が始まって1週間して周りの学生たちとの「生き方」の違いに違和感を感じて、講義の途中で大学を辞めようと決め教室を後にしました。それからの自分の行動は神戸の街を歩くことでした。ほとんど毎日といっていいほど原付バイクで神戸に帰っていました。
神戸の街を見守りたい。神戸の再生をこの目で見届けたい。
街を歩くと「がんばろう神戸」と手書きで書いた紙が貼ってあるのを目にしました。それが日に日に増えてあっちこっちで「がんばろう神戸」を目にするようになりました。それを見て涙がこぼれました。泣くことを我慢しても我慢できないくらいに涙があふれ出ました。
「生きる」ことのエネルギーが当時の僕には伝わってきました。そのとき、私はいつか社会に貢献できる存在になろうと心に決めました。
出会い
私は大学生の頃、家庭教師のアルバイトをしていました。家庭教師の仕事で最初に出会ったのが当時中学2年生タカシ(仮称)とトオル(仮称)の双子でした。
あるとき、家庭教師の派遣センターから先生の変更の依頼で、「他に誰も先生が見つからないからお願いできませんか?」という電話がありました。「なんで先生が見つからないのだろう?」という疑問を少し持ちながらも、初めての家庭教師の生徒だったので、私は張り切って彼らの家に訪問しました。すごく緊張しながら「こんにちは、家庭教師の村岡と申します。どうぞよろしくお願いします。」とお母さんと挨拶をしていると、2階から「早く上がってこいよ」という怒鳴り声が聞こえました。そのときの私の頭の中は不安でいっぱいで、おそるおそる2階に上がると、そこで見た光景は漫画のようなありえない光景でした。金髪ピアスに凄いモヒカン頭の双子が音楽を聴きながら両足を机の上にあげて待っていたんです。
「やられた。どうしよう。」こんな気持ちでいっぱいの私は頭の中が困惑しました。もし家庭教師派遣センターから、こんな子どもたちだという情報があれば絶対に引き受けていませんでした。私は何も聞かされないまま送り込まれてしまったのです。「どうしよう。絶対にこいつらに勉強なんて教えるのは無理だよ。」そう思った私は、彼らに勉強を教えることから始めることをあきらめました。「まずは仲良くなろう。」そう思いついたわけです。
「彼らに絶対にイニシアティブ(主導権)を取られてはいけない。」こんな気持ちで、開口一番に私が口にしたのは、「お前らどっちが喧嘩強いんや。俺と腕相撲で勝負せーへんか」こんなセリフが口から出てきました。もちろん楽勝で何回やっても僕の勝ちでした。いくら不良に憧れても彼らの体の線が弱かったのでこれなら楽勝だと思いついたわけです。
「なんでお前ら不良してるの?」って聞いたら「カッコいいから女の子にもてるから」と答えが返ってきました。しかしよくよく聞いてみると本当は「勉強がわからないから不良になった。勉強もできないのに普通にしてたら面白くない。だから勉強できないなら他のやつらに舐められないように不良になった。」これが彼らの答えでした。「なるほど」っと彼らのことが少し理解できた私は、「じゃあ、一からやるか」と少しずつ彼らと勉強を始めることにしたのです。
しかし、現実はそう甘くはありませんでした。集中力もない。根気もない。やる気もない。そして小学4年生レベルの基礎的な計算もできない。「できない。できない。できない。」のできないづくしでした。
「とにかく一つずつクリアさせるしかない。」私はそう思いました。家庭教師の通常時間は2時間契約ですがそんなことはいってられるレベルではないので5時間は当たり前の日々が続きました。宿題ができていない場合には夜中でも終わらないという本気をみせ根性を叩き直すために極真空手道場にも通わせました。苦手な社会は彼らの特技が漫画だったので漫画ノートを作成させ趣味が勉強のような毎日でした。
彼らから聞いた話ですが、小学校の担任の先生が「小学校卒業できて本当によかったな。頑張って中学校も卒業するんだぞ」と涙ぐみながら言われたと聞き、「お前らどんな小学生やねん」て突っ込みを入れたこともありました。
夏休みのほとんどは朝から夕方まで彼らの勉強に付き合いました。当時は私も大学には行ってなかったので時間がたくさんありました。中学時代の不登校で欠席日数がすごく多くて通知表なんてほとんどが1でたまに2がある程度でした。けど、彼らの頑張りに学校の先生方も少しずつ応援してもらえるようになり学校でも真面目に授業を受ける。提出課題もちゃんと出す。テストも受ける。そして学校で暴れない。タバコを吸わない。バイクに乗らない。こんな約束を守ることができるようになり、彼らも精神的にも学力的にも成長していきました。
本気で子どもに関われば子どもは変わる。本気で感動させようと働きかければ心は伝わる。
最終的には苦手であった社会が得意科目になり社会の偏差値が31から61までに成長しました。そして彼らはみごとに公立高校受験に合格しました。その報告を受けていっしょに泣きました。
彼らとの1年を通じて、私は自分の人生の目的を見つけることができました。「体にメスを入れる医者ではなく、心にメスを入れる医者になろう。無気力・無感動・無関心という心の病気に挑もう。」と心に誓いました。そして私は教師を目指すために1年間休学していた大学に復学することにしました。
情熱
教師になるために大学に復学した私は母校である神戸の中学校に教育実習に行くことになりました。
そこには理想と現実の違いが大きくありました。担当するクラスでの盗難事件やイジメや不登校そして中学生と交際するバカ教師、どうしようもない現実がありました。
私は教育実習中に数学の教科を担当させていただきました。自分の授業に子どもの未来がかかっているという責任から、放課後の希望補習をさせてほしいと申し出をしたところ、ある先生から「君がそんなことをやれば私たち教師がやらなければならなくなるからダメだ。君は短期間の教育実習でも私たちは一生この仕事が続くしクラブ活動があるから忙しくて補習なんてできないんだよ。」と言われました。もちろんそんなことを言われても私は食い下がりませんでした。「それでも僕は補習をやらせていただきます。彼らの未来を僕の未熟な授業で壊したくありませんから」希望補習には数名の生徒たちが来てくれました。「先生、勉強ぜんぜんわからへんから教えてよ。」こんな言葉が私の存在意義を感じさせてくれました。
補習組の中に青木君という男の子がいました。プチ不良でいつも遅刻で名札を忘れて来るから青い紙にホッチキス止めをされてマジック書きをされていました。「先生、俺、どこからわからへんかもわからへん」こんなことを彼は言いました。「よし、ゼロから始めよう」こんなことを言いながら、できるだけ楽しめるようにおもしろおかしく勉強をしていきました。
授業の休み時間には子どもたちと必ずサッカーに出てスーツが埃だらけで、教頭先生に「君は何をやっているんだ。教育者として自覚を持ちなさい」と叱られました。「教育者としての自覚ってなんだ?」
そんなことをずっと考えながら、私は教頭先生にもっと休み時間に走りまわれるようにスーツに運動靴で登校する許可をお願いしたところ、教頭先生は呆れた顔で「もう君の好きにして」みたいなことを言われてしまいました。
何人かの先生から「君はまだまだ若いからな」みたいなことを言われ、この人たちはいったい何がいいたいんだろうと考えていました。また、ある先生は「精神的に疲れたから病院に入院したいわ」なんてことを言い出すので、「先生、そんなことになったら仕事ができないから給料出ないから生活できなくなりますよ」って話したら、「君は何にも知らないんだな。入院しても給料は保障されるんだよ」と言われ、こんな腐ったような考え方に怒りを感じました。
あるとき、イジメの現場を目撃した私はクラス担任に報告に行きました。
「先生、小山くん(仮称)がイジメられてます。なんとかしてあげてください」
すると担任はこう言いました。「君は毎回毎回問題を起こすね。だいたいね、イジメられてるほうも悪いんだから、あまり大人は関わらないほうがいい時もあるんだから」もういい。担当クラスのイジメも俺が解決してやる。こう思った私は、休み時間に元気な生徒たちに「あいつも仲間にいれようぜ」とみんなに声掛けしました。当然のように「なんで、あんなやつ仲間にいれるんだよ。」みたいな予想通りの展開で、「いやいや、実はあいつは意外と根性あると思うよ」と思いつきで勝手に言ってしまいました。それから毎日、休み時間はサッカーをみんなでやりました。そしたらどうでしょう。イジメは消えました。簡単なキッカケでイジメなんて解決できるんです。私は小学生時代にどないしようもないくらいのイジメられっこだったので、イジメを受けている子どもを見ると昔の自分を見ているように感じて放っておくことができなかったんです。
教育実習もあと2日で終わるという日、私は張り切って学校に行きました。
朝から教頭先生に呼び出されて、今日は君は授業しなくていいからずっとここにいてとカウンセリング室一日待機になりました。その理由は、学校で一番の問題児が登校してきたから君に会わせると危険すぎると言われました。徹夜で授業の準備をしてきたのにすごく悔しすぎました。教育実習が終わる最後の挨拶で、私はクラスの生徒たちに何かメッセージを伝えたいと思いました。その当時、大好きな言葉が「一期一会」でした。「「一期一会」という言葉の意味を知っている人は誰かいますか?」とクラスの生徒たちに聞きました。誰も手を挙げなかった中で、恥ずかしそうに手を挙げる男の子がいました。青木くんでした。「青木、先生は真面目に伝えたいんだから、ここふざけるところじゃないよ」と笑いながら私は言いました。青木くんは「先生、俺ほんまに知ってるで。
一生の出会いの中で一回の出会いを大切にして生きることやろ」と答えてくれました。私は目頭が熱くなって涙を我慢することが精一杯で何も話せなくなりました。後に一年後、私が担当した担任の先生は教師を辞め、私は教師になることを辞めました。そして、私は自分で塾を創ることを決意しました。
代表 村岡 世済